神楽坂建築塾 第二期 第4回講義録テキスト 早稲田界隈を歩く 藪野 健氏(画家・早稲田大学教授) 画家。二紀会理事。
1943年 名古屋生まれ。
早稲田大学大学院美術史科修了後
マドリード・サン・フェルナンド美術学校に学ぶ。 安井賞佳作賞、
二紀展文部大臣賞等受賞。
著書に、『たてものをかく』(ポプラ社)『明治建築の旅』(新潮社)など。
武蔵野美術大学教授を経て、現在 早稲田大学教授。都市芸術表現。
土曜日の坐学に引き続き、日曜日のフィールドワークも藪野先生に案内して頂きました。快晴の中、早稲田大学から川を越え坂を登り雑司が谷まで歩くルートです。添付の藪野先生直筆の絵地図【部分・618KB】を見ながら番号に従ってお読み下さい。
【1】大隈講堂―早稲田大学構内当時(大正)の建築学科の教授が吉田亭二、伊東忠太、岡田信一郎、助教授に今井兼次、佐藤功一、今和次郎、佐藤武夫、内藤多仲がいました。彼等が講堂設計図案の懸賞を検討している時に関東大震災が襲い、着工が遅れたわけです。大正14年に着工し結局完成したのが昭和2年。昭和2年という最もお金がない時に建てたにも関わらず、驚くほどきちんと建てられているのは、学校というものに対して皆が期待を持っていたからではないでしょうか。
当時は下屋敷(大隈家に仕えていた使用人の長屋)が多くあり、それを撤去して講堂が建てられました。
大隈講堂の最初の案「一等案」はかまぼこを切ったような左右対象な形だったのですが、それに高田早苗や名誉学長が反対し、二十代の若い助教授、佐藤武夫が設計。ゴシック風で全面1つの舞台のような平面にし、塔が作りたかった。何故かと言うと、大隈重信の「人間は摂生して生きれば125才まで生きられる」という願いを込めて塔は125尺の高さにしてあります。大学の学生もそうですが、塔もちょっと左寄りについてるんですよ。早稲田大学の気風というか、大隈講堂の位置も真正面ではなく約30度ほど振っています。又、町と校内の境界がなく、いつの間にか大学の敷地に入り、徐々に結界するプランになっています。
外壁のスクラッチタイルは一人一人の職人の味が一枚ごとに反映されていて、表情が豊かなモザイクのようでしょう。煉瓦が皆均一に仕上がってしまうからこれを今再現することは非常に難しいです。鐘楼の上の部分はWの格好をしているなど、細部まで凝っているのを注意して見て下さい。ランタン(照明灯)が一つ一つ大隈家の紋章になっていますが、これはこの建物が大隈重信の記録の物だからです。内装は梁もなく、音響も抜群。室内の照明が丸天井に太陽、月、星々が学生を見守っているという構成になっています。それがなかなかスバラシイ。
前面はゴシック風、側面は足廊があり下が窄まり徐々に広がっていくク丿ッソスの宮殿のような柱が建っている。この1つの建物にロマネスク、バロック、ギリシャ、ゴシック風様々な様式が織込まれています。
【2】早稲田大学構内【旧図書館】〜今井兼次設計〜
そこには今井兼次の『建築とhumanity』という本にも書かれている6本の柱があります。その話とは、一人の若い左官職人がいまして、なかなか出来上らない。しかしどうしても自分の手で仕事を全うしたかった。最後は柱の前に花ゴザを敷いて正装した家族を座らせ、最後の仕上げを見せたという逸話があります。
この建物にも言えますが、昔は細部に至るまで職人が一つとなってものを作り上げたという精神が見られます。そしてこの建物は大隈重信の思想を具現化したもので、床はアラビア風のモザイク、天井はイタリア風、ローマ風の階段を上がって行き、当時世界一の大きさだった横山大観の日本画が壁面にあります。
学内の地面に大きな起伏が二つ見られますが、それは元々茗荷(みょうが)畑だったから。早稲田大学も殆どの建物が建て直しの方向で決まっています。大学はなるべく貧乏になった方がいいね。建替える資金がなければ古い建物が残るから……。
【坪内逍遙博士記念演劇博物館】1928年今井兼次設計
ハーフティンバー(木の構造体を外に装飾的に見せること)の木造に見えますが実際にはRC造です。二階の坪内研究室の天井を見てみると漆喰造の羊がいますがそれは逍遙が未年だったから(笑)。コの字型の建物の正面外に舞台があり、建物全体も劇場としての役目を持っています。今日でもここで年に一度演劇が行われ、観客は椅子を外に置いて見るんですよ。この二階の窓からジュリエットが身を乗り出す……。
【3】西早稲田(古書店街)教育学部の裏側を入っていくといつの間にか住宅の路地に……。そこには角帽子屋と学生が通う大盛牛丼屋、そして昭和初期に建てられた下宿屋、残った最後の一軒が建っています。細いクランクは静かに通り抜けて下さい。ここで追っ手が巻けるね。
【高田馬場】
ここはかつての馬場です。高田馬場って広いでしょ。路地ではなく通り抜けられない道が多いのです。あれって昔の質屋さんでしょ?おかしいな。マンションになっちゃったんだ。蔵だけ残ってる。昭和初期の下見板の住宅が残ってますね。うれしいねえ。
【4】水稲荷高田馬場周辺は相馬家から早稲田大学に寄付されていたので、ここら辺一体は大学の所有地だったのですが、昔、高田富士にあった富士高を壊して早稲田大学の工商研究棟を建てるため、その土地を交換して水稲荷が今の場所に移動した経緯があるのです。ですから大学が寄付した神社、鳥居に「早稲田大学」と書いてあるのも珍しいですね。毎年ここで流鏑馬(やぶさめ)を行っています。緑が多く通る風が気持ち良い。
【5】神田川―文京区目白台神田川はかつて大きく蛇行を繰り返していましたがその形がそのまま現在の区境となっています。覗いてみると結構深い。これは元々ではなく、堰が関口町(関口の名も堰口からきている)の辺りにあったために深くなってしまい、実はもっと水位は高い。昔はここで舟遊びをやっていたそうです。実はここの堰工事の管理を行っていたのが松尾芭蕉でした。河が高度な情報発信地となっていたことを思い描いて下さい。
【目白ハウス】
昭和初めの下宿屋。スクラッチタイルを用いた和洋折衷建築。かつては医院だったそうだ。
【6】新江戸川公園かつてはここも細川家の庭園で坂の上に洋館(和敬塾)があり、屋敷全体は一万坪以上の大きさでした。当時は徳川家の下屋敷や中屋敷といえば10万坪以上の規模。スケール感で言うと後楽園の大きさ、防衛庁の大きさを考えてみて下さい。昔は江戸勤めの侍たちが外へ出るとわからなくなってしまう。まず庭内で迷子になり、そして浅草に行くつもりが泉岳寺だったりしてね。つまり町全体が迷路空間だったんだよ。その頃に侍たち用に作った地図が尾張屋の切絵図だったと言われています。歩いて作った地図なので非常に分り易く全ての水路が描かれていること、屋敷内の配置図が載っていないのですっきりしていて情報が整理されています。今も江戸切絵図を見ながら歩くと東京のアップダウンが分り、銀座や神楽坂は路地が残っているので今でも切絵図を使って歩けますね。ここら辺は、湧水が非常に多く湿地帯が広がっていました。
この後はちょっとキツイですけど坂を登って和敬塾、目白方面に向かいましょう。
【7】 水神社と胸突坂「神聖な場所には幽境の地がある」--その場合の多くは自然(樹)を使っています。水神社の場合は大木の銀杏二本。そういうことで都市の中のあるポイントにしているのです。芭蕉庵と水神社にはさまれた急坂が胸突坂。この階段がキツイ……。
【8】 和敬塾寮棟の奥まで足を延ばすと緑濃い庭の中央に旧細川伯爵邸本館(昭和10年・臼井弥枝設計)が建っている。英国のチューダーゴシック様式のカントリーハウス、19世紀後期のアイリッシュスタイルなのですが、折衷様式になっています。二階には和室がありバーがあり階段下には座敷牢、地下にはビリヤード。熊本の細川家がクリスチャンだったので、二階に小さな礼拝室であっただろうという部屋もあります。戦後すぐに占領軍に接収されてしまい、細川家は丘下の和風の建物に移られました。そして接収が解除になった後、前川喜作が軍事景気で儲けた金で買取り、最初は熊本出身者の為の学生寮として和敬塾を作られたのです。現在では東西南北の4棟に分れ全国各地からの学生が住んでいます。現在本館は和敬塾の本部になっており撮影や演劇、学会にも使用されています。
【9】目白通りとその周辺路地昭和初期の建物は玄関の脇に洋館があって客間として使われていました。文化住宅の1つでこの辺りには何軒か残っていますね。この一本奥の道を入ると、明治時代の住宅も残っているので見て下さい。ちなみに、この先に日本女子大学がありまして、そこに下見板の木造2階建ての旧成瀬邸がありますが壊される予定です。残念です……。
【10〜11】マッケレベ邸と雑司ヶ谷墓地1892年に来日した米国人宣教師マッケレベが、1907年に建てた下見板の洋館です。マンション建設で解体されそうになったのを、地元の主婦らの保存運動が食い止めた例として知られています。美しい建物ですが、引きがなくて絵を描くのは難しい。
緑が生茂った雑司ケ谷墓地に夏目漱石、小泉八雲など早稲田を愛した文人たちがここに眠っています。
(c)神楽坂建築塾2000