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第5期(2003年度)神楽坂建築塾講義録
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第3回講座(坐学)
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テーマ「森と建築の再生」
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講師:戸塚元雄氏(建築家)
戸塚元雄建築設計事務所(香川県高松市)代表。一級建築士。NPO法人・木と家の会会長。月刊『住宅建築』96年7月号「徳島杉とのネットワーク」、『建築雑誌』02年4月号「香川 戦後植林木と『民家型構法住宅』」、『住宅建築別冊』54号「居住者参加型地域ネットワークシステム」に関連記事。『住宅建築』00年8月号に「国産杉材による住宅架構の考え方、作り方」を執筆。
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1950年代の建築家たち
私は神楽坂建築塾のことは名前は知っておりましたが、どういう会なのかは知りませんでした。気軽にお引き受けし、6月になってホームページを拝見しましたら、がく然としました。第一期からのすべての講師の名前とテーマがリストになっていたものを見たんですが、そうそうたる顔触れじゃないですか、こりゃえらいことを引き受けてしまった、と思ったものの、もうお断りするわけにもいかず、こうして出てきました。
私が東京で設計活動を始めたころ、塾長の平良敬一さんがつくられた『建築』という雑誌を見たことをいまでもよく覚えています。私が建築をはじめたのはだいぶ遅かったんです。建築の学校に入ってすぐに見たのが、1963年の『建築』でした。たしか出雲大社が表紙になっていた菊竹さんの特集で、私はそれを手に取ってから建築を真剣に考えるようになった、といえます。以来、『建築』はずっと熱心に読みました。更にそれ以前のバックナンバーを神田の古本屋で探したものです。最初は定価より安く買えたのですが、やがてどんどん値上がりした。私も、古書市場で『建築』の値段を上げた一人だったと思っています。
『建築』の後で平良さんは『SD』を創刊された。その頃には私も木造や住宅の設計をしていて、或る程度自分なりの考えを持っておりました。ちょうど平良さんが『住宅建築』という雑誌を創刊なさるという話を聞き、「ああ、平良さんはこういう雑誌をつくりたいんだろうな」と自分なりに想像ができました。そして出てきた雑誌を実際に見たら、思った通りの内容だったんですね、つまり家づくりを建築設計の専門家だけの分野からもっと住み手の側に広げていこうという新しい思想が感じられた。そして私は『住宅建築』の熱心な読者になったわけです。だから、私の設計活動の一貫した導き手は平良さんでしたので、今日は初めてお目にかかることができ、光栄に思っております。
まず、建築の設計、デザインのことと、生産体勢との関係についてお話します。
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私は設計事務所をつくってからずっと一人で仕事をしておりました。それが2年前に、今日も会場に来ております井河君という女性と一緒に仕事をするようになりました。彼女とぼくは、ちょうど親子ほどの年代差があるんです。来てもらって一緒に仕事をするんですが、実務の上ではそれでいいとしても、ものの考え方が随分違うわけだからどうやってコミュニケーションをとっていいのか悩みました。
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木と家の会ウェブサイト
http://kitoie.or.jp/
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その時彼女が1950年代の木造住宅、特に増沢洵(ますざわまこと)【※1】やレーモンド【※2】の建築に興味を持っていたことが分かりまして、私もその頃の住宅が好きだったものですから、お互いにその頃の住宅をどう考えているかをメールで意見を述べあったんです。2年間位続けました。それをぼくらは「モダニズム通信」と呼んでいました。
「モダニズム通信」で議論しあった1950年代というのは、日本の住宅建築にとって特別な時代でありました。住宅の変革期だったと言っていい。実は、今もまた住宅の変革期なのです。50年前とまったく状況が違うんですが。
1950年代とは、戦争が終わった直後であり、旧体制から価値観も大きく変わってきた時期です。その時に建築、特に住宅を設計していた若い建築家たちが何を感じ、何を求めていたかを考えたんです。
そこで事例としたいのが、増沢洵の「最小限住居」です。最近「スミレアオイハウス」としてリメイクされたのでご存知の方も多いと思います。
もう一つは白井晟一【※3】さんの作品です。白井さんはとても精神性の高い作品をつくった方ですが、その方が戦後の一時期に小住宅をたくさんつくっている。
彼等が、なぜこんな設計をしたのか、ということを若い世代の人たちに考えてほしかったんです。当時はいろいろと制限があった。住宅金融公庫が15坪以内という限度をつくっていたので、それで15坪以内の家がたくさん建てられました。この時の住宅はなぜか今でも輝きを失っていない。どうしてなんでしょうか。当時の設計者は、わずか15坪という空間の中で、あらゆる問題を解決しようとしたんです。そういう意気込みこそが、あの頃の住宅の魅力になっていたんでしょう。
しかし、私はもうひとつ別の視点から見てみたかった。それは構法や材料という問題です。それを彼等がどう考え、向き合い、解決しようとしたのか。
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※1 増沢 洵(ますざわまこと 1925〜1990)
建築家。東京に生まれる。東京大学工学部建築学科卒業。1947年よりアントニン・レーモンドに師事。1956年に増沢建築設計事務所設立。
日本建築家協会理事、東京大学工学部講師、ハワイ大学客員教授を歴任。代表作に「最小限住居」などがある。
※2 アントニン・レーモンド(1888〜1976年)
Antonin
Raymond 建築家。チェコで生まれる。プラーク工業大学卒業。1919年に旧帝国ホテル建築の際に、フランク・ロイド・ライトに招かれ1919年に来日。以来54年を日本で過ごし、多くの建築作品を手掛ける。前川国男、吉村順三らがレーモンドの思想を受け継ぐ建築家とされる。代表作に「東京ゴルフクラブ」、「東京女子大学」、「リーダースダイジェスト日本支社」、「南山大学」などがある。
※3 白井晟一(しらいせいいち 1905〜1983)
建築家。1905年生まれ。京都高等工芸学校建築科に入学し、戸坂潤(マルクス主義哲学者)、深田康算(美学論者)等に師事
。1928年ハイデルベルグ大学に入学し、カール・ヤスパースに師事。その後ベルリン大学へ移る。代表作に「渋谷区立松濤美術館」、「静岡市芹沢 介美術館」などがある。
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規格材のみでつくられた住宅
増沢洵の「最小限住居」は、平面が3間×3間で、横方向は1間ごとに、奥行きは1.5間(けん=約2.7m)ずつに柱が建っています。総2階にすると18坪になって制限を超えてしまうので2階の3坪分床をなくして吹抜けにしています。
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軒高は12尺(約3.6m)、棟高は15尺(約4.5m)、桁行きは18尺(約5.4m)になっている。これはすべて市場規格品の寸法なんです。屋根は梁をかけずに垂木構造なんですが、その垂木の長さも12尺。増沢さんはあの住宅を「規格品以外は使わないぞ」という強い意志で設計したんだと思うんです。だから軒は深く出ているけれど妻【※4】のけらばの「出」はまったくありません。18尺では妻を伸ばせられないからです。
断面も立面もすべて最小限である。あの空間がもっている独特の緊迫感は、市場規格品だけで構成されていることに拠るんだと思いますね。
白井さんという人は、当時から山に入って一本ずつ木を選んだり、という非常に手の込んだことをされた方ですが、戦後のこの一時期だけは規格品の4寸材(12×12センチの角材)だけで仕事をしているんです。これは見過ごされがちですがとても大事なことです。あの白井さんが、です。
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※4 妻(つま)
建物の端のことで、建物の側面や棟の方向に直交する面。
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白井さんは或る対談【※5】でこう語っています。
「けれど戦後はなにしろ悠長なことを言ってはおられない時期でした。ローコストは絶対条件ですし、100平方メートルのスケールいわば最小限住居の需要に対して、建築家はそれぞれの夢や個性的なものを揚棄しながら、どう対応していくか、またいけるかということが最大の課題だったのです。……市場規格の4寸角10尺の桧の芯持ち柱、同材2間モノで横架材をやっています」
つまり4寸角だけを使い、それらを短ホゾ・帯鉄でつなぐことで家をつくる。更に、4寸角柱を二つ割りした材(2寸×4寸断面のこと)を小屋の垂木とし、更に四つ割りした材(1寸×4寸)を間柱とし尺5寸間隔(45センチピッチ)に入れて真壁式大壁とする、という。これが当時の白井さんの住宅の特徴でした。見え方は真壁構造(柱がそのまま見える構造)です。「ささやかでも、この発想と展開については、いまでも自ら慰めにたるものだと思っています」と書かれています。
非常に意識的に規格品だけで住宅を建てようとする的確なまなざし、これに注意を向けたいと思ってご紹介しました。わずか15坪という小住宅において、増沢さんも白井さんも、当時の日本の住宅変革期にひとつのプロトタイプをつくろうという意気込みで設計した、使う材料も誰にでも手に入るもので、どこにでも建てられるものをつくろうとしていた。お二人の建物の印象はまったく違うのに、取った手法は同じであった、ということなんです。空間構成やフォルムということではなくて、構法や材料、規格化というところに目を向けながら傑作群をつくっていた。建築のデザインとは、生産というべき部分、つまり材料、構法、流通、更には山の状況、それらすべてを抜きにしては存在しえないんだということなんです。50年代の傑作群はどれも、そういう全体を睨みながら部分を構成していたといえると思います。
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※5 「白井晟一の眼・II」P126(神代雄一郎氏との対談)より。『白井晟一全集別巻』(同朋舎)。
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アメリカでも同じような動きはありました。モダニズムの傑作であるイームズ【※6】自邸なども、ひとつのプロトタイプを目指したものでした。雑誌社が企画して約30戸建てたんですが、結局この試みは成功しなかった。デザインとしては残ったけれども、当初意図していた、量的な拡大という意図は外れてしまった。それはなぜかというと、デザインを支えている生産システムのところまで手が届かなかったからではないか。
井河君との「モダニズム通信」の中で、そんなことを繰り返し話し合ってきました。
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※6 チャールズ・イームズ(1907〜1978)
Charles
Eames 米国ミズーリ州セントルイスで生まれる。椅子、建築、映画などさまざまな分野で活躍する。成型合板で3次元曲面を活かした「Eames
Shell
Chair」が有名。1941年にクランブルック芸術専門学校で知り合ったレイと結婚。以後の業績は2人の共同作業となる。
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生産システムのゆきづまり
その後、日本の住宅は一気に工業化に走りました。新規住宅軒数が年間180万戸という異様な数までいった。今でも年間110万戸くらいつくり続けていますけれど、基本的には工業化を前提にした仕様になっている。うち「木造」とされるものが50万戸あるのですが、それらのほとんどは内にも外にも木が見えてこない建物(大壁構造のこと)なんです。いま、それに対しての反動、反省、揺り戻しが始まっているといえるのでしょう。大量生産・大量消費のつけがまわってきた時代である、だからこそ、ここにいるみなさんも危機感を持ってこうして神楽坂建築塾で学んでいらっしゃるわけでしょう。
今はどういう時代かというと、1950年代とはまた違った、想像を越えた変革期だと思います。
一つは山の状況です。実は変化は30〜40年前に始まっていた。しかし木の成長には時間がかかるため、昔の日本の山に起きた大きな変化が、いまようやく顕在化してきたということなんです。つまりその変化がまちに到達してきた。
一方、住み手の側にとっても、高度成長期以降ずっとやってきた家づくりが行き詰まり、もはや通用しなくなってきたということを感じている。三つ目には、人々の暮らし方が大きく変わってきた。
言い換えれば、
変革期とは、普通に家をつくるシステムが有効でなくなった時代でもある。新しい状況をつくらなけれはならない。50年代の建築家と同じように、私たちもいま新しいやり方をつくらなければならない。だから、建築設計をするものは、生産体制全体を考えながらやらなければならない、このことを強調したいと思います。
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前提となる共通性の追究
次に、国産杉材による住宅架構の考え方、作り方ということについてお話します。
現在、日本の山のストックの7割は杉材と言われています。この膨大なストックを有効に活用することなくして、国産材を使った家づくりとは言えなくなる。杉が中心素材になることは間違いない。しかしなかなかそれが考えられてはいないのが実情です。熱心に考えているのはごく一部で、中心課題にはなっていないんです。
ぼくの場合、六車(むぐるま)工務店の六車昭さんという棟梁と一緒に二十年近く仕事をしてきました。ぼくが一番最初に設計した杉の住宅を六車さんが建ててくれたという偶然の出会いがあったから、いままで続けられたといえるんです。設計者と大工さんという二人の目を通して協力し、よりよいものをつくろうとしてきた。15年ほど続けてきたところでいったん整理したものが、『住宅建築』に載せてもらった文章(「国産杉材による住宅架構の考え方、作り方」)です。
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そこでは「木造住宅の標準(スタンダード)」という考え方を強く出しています。標準という考え方で思いだすのは、養老孟司【※7】の『バカの壁』という本です。
ああ、これはぼくが住宅の標準化でやっていることと同じだなあと思ったんです。「個性の教育が大切だ、と世間では言っているがそれはまったく間違いだ、人間は生まれたときにはみんな個性的であり、そこから共通性を考えていくことが大切なんだ」と言っている。
実は「標準」とはその共通性のことなんです。住宅を建てていく時に、共通性を追究していくということもまた大切なんです。そして共通性ということは、現在つくられている木造住宅全体を視野に入れるということです。
共通性の追究とは、決まったものが大量に出来てしまう、ということではないんです。材料、流通、そして大工さんの施工技術、みんな違う中で、どうスタンダード化できるかということであります。そして設計というのは、全体を支配するものではないということもわかってくる。実はごく一部に過ぎない、その役割をきちんと果たさなければならない。そこのところを書いたのが「国産杉材による住宅架構の考え方、作り方」という文章なんです。
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※7 養老孟司
(ようろうたけし 1937〜)
鎌倉市に生まれる。東京大学医学部卒業。専攻は解剖学。北里大学教授、東京大学名誉教授。『からだの見方』でサントリー学芸賞を受賞。他に『解剖学教室へようこそ』『身体の文学史』、『ヒトの見方』、『形を読む』、『カミとヒトの解剖学』、『異見あり』、『人間科学』など著書多数。
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原木寸法と平面モデュール
まず第一に私たちは、原木寸法のことを考えなければなりません。
日本の山では、通常4mの長さに丸太を切って山から下ろします。これが基本寸法であるならば、これをそのまま使ってどういう風に家が建つか、ということを考える。平面のモデュールが4m材に合うのかどうかを試してみました。これが、山と住宅との一番基本的な接点になります。寸法さえ共有できれば、その後の話は詰めやすい。しかし、この寸法が食い違っていると、設計者が勝手に材木を要求し続けても、山と住宅との話が通じない、と言っていい。
次は、「標準架構」という考え方です。
それは、限られた架構タイプでたくさんの住宅をつくってみようということです。
昔の集落や民家を見ると、たいてい似ていますよね。それは打ち合わせをして合わせたのではなくて、結果として架構や表情が似てきたわけです。そういう建て方が風景を決めてきたし、住宅をつくる上で大切なことだった。限られた架構タイプで建てるというと、同じ家がたくさんできてしまうのではないか、とか、それは建築家のすることではない、とか言う人もいるかもしれません。しかし私は同じフレームタイプを使って7〜8軒の家を建てましたが、どれも違っています。ひとつとして同じ家はない。ロケーションも、住み手も違うけれど、なんら問題を感じたことはない。
架構タイプが統一されていても、建物としては融通性がある、ただ、「どんな状況でも対応できるタイプ」というのは実はいくつもあるわけではない、そういう共通タイプをいかにして見いだしていくか、ということに核心があるんです。それを見いだし、ストックしていく。それを活かして住宅をつくっていく。標準タイプが山側の寸法とピタッと合っていることが必要である。これは言い換えれば、山側の材料提供者に負担をかけない、ということです。同時に、大工さんの考え方にも合っていなければならない。これなら建ててられる、という水準になっていなければならない。この2者のOKがとれれば、これは繰り返し使えるということになる。使っていくうちに大工さんも建て方に慣れてくる。余裕が出てくる。するとさまざまな工夫が生まれてくる。水準も上がってくる。たくさん建てられる住宅の強みは、こういう風に生まれてくる。毎回毎回違う考えで建てるのではなく、共通性を探っていく、できればそれを架構でやってみる。それを言いたかったんです。
3間(けん)タイプと2間タイプがありますが、木と家の会が今後提案していくのは2間フレームです。
木材の規格は、ほとんどJAS(日本農林規格)に則っていてたくさんの種類がありますが、その中からぐっと絞り込んで本当に役に立つ部材だけを整理するということも大切です。それが「部材を整理する」という考え方です。
架構も整理するし、使う部材も整理する。全体をわかりやすくする。大工さんだけでなく、流通にとっても重要です。つまりストックする範囲が狭まりますし、あらゆる面で建築がわかりやすくなってくる。
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「板図だけで建つ家」こそ理想
最後に「決めごとと繰り返し」とあるのは、設計者と大工さんとの間の決めごとです。設計者というのは、とかく膨大な図面を描き、それを大工さんに渡す。それを誇る傾向もある、これだけ描いたぞ、描き込んだぞ、とね。いつか田中文男さんが「めかたで計るほど図面を持ち込んでくる」と話されたことがありますが、あれはつくる側にとっては非常に迷惑な話であって、本当にいいシステムだったら図面はそんなにいらないはずだ。究極には、大工さんが板図だけで家を建てることができれば、それが一番いい。それが目標ですよ。大工さんとの間で約束、決めごとをつくる。例えば、横架材の組み合わせ寸法が、合い欠き3センチずつの6センチと決まっている。これが適寸だということになれば、渡りアゴで組むところは、もうこれで決まりであって、図面には書かない。どこいっても6センチなんだから。あえて表記する箇所があれば、それは特別なメッセージになる。そこに注意を向けることができる。
図面に指定しなければならないことがどんどん減っていく。長ホゾで込み栓を打つとすれば、そのホゾの長さ、太さ、栓のサイズもすべて決まっている。栓を打つ位置も決まっている。そうすると、図面はとても簡単になっていく。1/50の平面図と矩計図、あとは構造図があれば大工さんはパッと読み取っていく。大工さんが板図1枚で、ということも夢ではなくなる。
決めごととは構法だけでなく、いくつかのパーツについても言えます。繰り返し使えると思ったものはどんどん残していく。
たとえば、障子もガラス戸も網戸も雨戸もぜんぶ引き込まれる引込み開口部、こんなのは普通、詳細図をきちんと描き込まなければ伝わらないんですが、一度、引込戸が部品化されますと、平面図に入っているだけですぐに拾い(積算のための部材の拾い出し)もできるし作り方もわかる。あるいは出窓もすでにパーツとして登録されている。だから「ここは出窓でいくよ」と言えば、あとは打ち合わせの必要がない。
長屋門のような付属棟ですらパーツです。これも4寸角4m材で組める。これらは低くていいから、4m材を半分にした2m材からホゾまで取れる長さにしてあります。込み栓ですから、栓を抜けばすぐに解体して移築できます。そういうものを重ねていくことで、だんだん木造住宅が特別なものから共通性を持つものに変わっていく。その共通化の上で、初めて、それぞれの家族だとか、敷地だとかの特別な条件を加えていく、そうすればみんな別の表情を持ち、別の性格を持つようになるんです。
この建物の棟上げの過程をビデオにしてありますので、それを見ながらお話します。
これらは70年〜90年生の杉です。アンカーボルト以外には金物を使っていません。大工さんは棟梁以外みな20代、5年以下の経験で刻みをし、継ぎ手を組んで、込み栓を打って建てているんです。こういう仕事は大変かと思うかも知れませんが、若い人たちでも十分できるんです。棟木だけは1尺の成(せい)の9m材を2本継いでいます。規格品を使いながら、ここぞというところだけはやはり長モノを使います。そうすると材木屋さんも「ここだけは!」と良いものを選んでくれちゃったりするんですよ(笑)。
込み栓を打つ音、いいでしょう? この堅い音。この音を聞くと、大工さんはもう金物を使わなくなっちゃうんですよ。ここを見て下さい。普通、垂木は棟木の上に載せますね。斜めに多少欠き込むにしても。ところが私たちは、成の大きい棟木に、一箇所ずつ蟻継ぎのホゾを彫って、垂木を落し込んでいくんです。垂木を跨がせない、だから屋根の面剛性がしっかりとれるんです。
こうして見ていくといかに接点が多い建物かがわかりますね。たとえば何百箇所もある貫の仕口が、ひとたび外力が加わった時、膨大な抵抗要素になるわけです。一つひとつは弱いが、たくさん集まると強力になる。合板で固めたガチッとした構造ではなく、これは変形しながら抵抗していくわけです。筋交いなんかは一端座屈したらもうおしまいですが、こういう貫構造は、ゆがみながら全体でずうっと抵抗を続ける。それが日本の伝統的な構造なんです。
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杉材の家は定着するか
今見ていただいた杉による家のつくり方は、実は香川県では、これまでなかったものです。
香川は雨が少ない瀬戸内気候で、水は隣の徳島県の吉野川からもらっている。杉はあまり生えていない。だから家はたいてい松で建てていたんです。一説によるとかつての塩飽(しわく)水軍の造船技術から来ているといわれ、曲がりくねった松を巧みに交差させた梁の民家などが今も残っています。しかし香川県の松は、わずか20年で壊滅しました。木や山というのは、永久にあるものではない、簡単に消滅してしまうという典型が香川の松ですね。
そこで、杉の建築の歴史がない香川県で、杉主体の家づくりを受け入れてもらえるかどうか。住み手とともに、つくり手である大工さんに納得して建ててもらわなければならない。これは民家型構法ですが、これを定着させることができるかどうか。
六車さんのところで、ほぼシステムは完成したといっていいと思います。これならば、どこででも、誰でも建てられる、といえるレベルまで来たものですから、今度はこれを普及していく作業をテーマにしようと決めました。
そこで構法の追究は或る程度で止めて、今度はすべての人を対象にして広げていく過程に入ったといえる。民家型構法が出てからほぼ20年。ようやく普及の時代になったんです。質の問題から量の問題へ、ということです。
質の追究は、個々バラバラでもできる。しかし普及となるとそうはいかない。大勢でなければできない。そこで2000年7月に会をつくりました。私だけでなく香川県の友人たちもこういう家づくりを始めていましたので、集まって任意団体としての「木と家の会」をつくりました。つくってはみたんですが、どうもうまくいかなかった。それは専門家の限界ということです。どんなにこれが素晴らしいか、をひたすら伝えようとした。しかしこれがまずかった。所詮これはつくり手の論理だった。熱心な人は受入れて熱烈なシンパになってくれる。しかしその数は圧倒的に少ない。なのにぼくたちは世間の人がみんなそうだと勘違いしていた。このまま伝えていけばみんな納得してくれる、普及も進んでいく、と信じていた。
しかし、それが専門家だけの勘違いだということに一年経って気づいたんです。そんなことはほんの少数派のことだった。しかしこれが大多数に受入れられなければこの活動の意味はない。50年代の建築家の話もしましたが、住宅というのは量なんです。質だけではない。特に国産材を使った住宅といった場合、全国で数軒なんて話では全然意味がないんです。特別な人だけでなく、誰もが膨大なストックとしての杉を使えるようにならなければならない。
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▲嶺北の山を訪ねるツアーの様子

▲森林・木材協定調印式
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多様な価値観とNPO法人化
そこで、自分たちの専門以外のさまざまなジャンルの人が入ってくるようにすべきだと気づいた。それでいろんなイベントをするうちにどんどん人が集まってきたんです。そしてそのうちに、「これはNPO法人にするのがいいのではないか」ということになって去年の3月に法人格取得の申請をし、6月にNPO法人になりました。
NPOは、これからの社会の中心となる新しいセクターであり、日本の社会を変えていく上での大きな力になっていくはずです。
「四国の山の木を、四国のまちへ」、これを対外的なスローガンにしました。活動の範囲を四国に限った。そして、社会的システムの形成を活動の目的にしました。具体的には、どこで四国の材を買えるのか、大工さんはどう頼めばいいのか、こういうことを社会化したいと思ったんです。そのための公報活動をするということです。
つくる家の内容は、さきほどの仕様で変わっていません。それを崩す気はないんですが、これだけが一番いいんだ、という押し付けだけではダメだ。住み手に納得してもらわなければなりませんから。どの点がよくてどの点がダメか、ということも、会の中の非専門家の人々との議論の中で浮かび上がってくるし修正も効くだろう、と思っています。
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木をまるごと使う工夫を
つづいて、スライドで会の活動を見ていただきます。
これはNPO設立記念フォーラムですが、タイトルは「なぜ四国の山の木は私たちの住まいに使われていないのか」と、かなり刺激的な題ですね。なんでこんな題にしたかというと、つい最近まで四国の人は、四国の山の木は使っちゃいけないと思っていたんですよ(笑)。木を切ると環境破壊になると信じていた。しかし、山はいったん人間の手が入ると、ずっと人間の手を入れていかないと荒れてしまうわけですね。そのことがまったく知られていないことにやっと気づいたんです。新聞記者も来たんですが、その質問が「木は切ってよかったんですか」というくらい、こういうことが知られていなかった。木を使うことの意味をまず知ってもらわなければならなかったんです。
水の少ない香川県の水がめと言われているのが高知県の早明浦(さめうら)ダムです。多くの県民がこのダムの貯水率に神経質になっているんですが、しかしこの水が、実はその後背の山に支えられているという意識はない。去年香川県が県境を越えて間伐の助成金を出したんです。これは日本の自治体としてはとても画期的なこと。県民のお金を違う県に出したんですから。私たちは、これこそ、山の役割を考えるチャンスだと思ったんです。そこで立ち上げのフォーラムを開催し、そこに嶺北(高知県北部)の人たちをお招きして山の現状を話してもらいました。
嶺北の木で家を建てるという活動を2年前から始めたんですが、それまでは材料を出す窓口すらなかった。そこで、嶺北地域の土佐町林業研究会(略称林研)に頼んで材を出してもらって2軒の家を建てました。そして価格設定や乾燥の仕方などの問題を詰めていって、継続するための枠組みをつくろう、ということで協定を組むことにしました。土佐町側の「れいほく森林(もり)と木の会」と、私たち「木の家の会」との間で木材を受け渡すための協定を結びました。山側にとっては、どんな材が求められているか、それがどんな家になるのか、を知ることができる。私たちにとっては、その材がどこから出てきたかを把握することができる。協定林という形です。値段はすべて山側が決めて構わない、とし、その代わり価格の基準を示してくれ、と言いました。ただ、実際には市場価格に、選木費用を1〜2割を上乗せしただけの価格で出してくれています。
それぞれから5人ずつ委員を出して、運営協議会を3ヶ月毎に話し合っています。これが非常に具体的で、材の出し方についての修正が的確に出来るようになりました。この写真は今、山側の人が、「歩留まり」について説明してくれている様子です。木材の価格設定は材齢でやるのか材質でやるべきか、とかですね。これをずっと続けていけば、山とまちとの問題はほとんど解決されていくと思います。
高齢木の丸太が出てくる。真ん中の芯を中心にして柱を取りますね。あるいは梁を取る。そうすると、その周辺の丸い部分をどう使うか、ということになるが、山側としては丸ごと買ってもらうほうがいいに決まっている。するとわれわれは、丸太から柱や梁をとった後の外周部の材、背板と言うんですが、これをどう使うかということを考えなければならなくなる。背板を2種類か3種類に整理して設計に取り入れてみようと思います。まちの材木屋さんにとっては大変な負担になると思いますが、やってみようと思う。木の問題はやってみなければ絶対にわからない。すべてのことにこれは言えることで、本当はこうして座って話を聞くよりは、実際に杉で家を建ててみるといい、問題にのたうち回りますが、一番よく分かります。
産直方式については、私たちはとりません。なぜなら、産直ができるところ、つまり体制と力を持っているところに仕事が集中してしまうんです。するとそれ以外の中小の山はやっていけない。だから私たちは産直はせず、できることはまち側でやるようにしようと決めたんです。「伐採→選木→製材」ここまでを山にやってもらい、のこりの「乾燥→管理」というプロセスはまち側の材木屋でやるようにする。まち側の材木屋が果たしていた役割を復活させる、ということでもあります。それに対してもお金も払う、ということです。
協定の中で取引しているのは、例えば梁では規格寸法の4×7寸、4×8寸だけです。板は2種類、構造材は5種類。そんなものです。決めごとと繰り返しが徹底していれば、非常にわかりやすい建築になるんです。そのわかりやすさこそ、この構法が普及してゆく鍵になると信じています。【了】(文中写真:NPO法人木と家の会
提供)
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▲丸太を製材する

▲製材後。左の梁材を取った残りが右の背板
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